杉田道   2008/03/26
 歌人で国学者の清水浜臣は文化4年(1807)、46才の時、2泊3日で江戸から杉田へ梅を見に行き、紀行文「杉田日記」を書いた。1月12日(新暦2月18日)に江戸を出発し、横浜・野毛(吉田新田)に宿泊。翌13日、石川中村(石川町)、上大岡、屏風ヶ浦を通って杉田村に到着し、梅を見て保土ヶ谷に宿泊。3日目の14日、酉の刻(18:00)に帰宅した。
 江戸から杉田村へ行く道は、東海道→金沢道→杉田道であった。東海道から金沢道への分岐点の金沢横町付近を見に行った。

JR保土ヶ谷駅近くの旧東海道:横浜・保土ヶ谷税務署前の道路


税務署前から南方を望む
中央点滅信号が東海道から金沢・鎌倉道への分岐点・金沢横町である。ここを左折して金沢道に入る。

道路前方はJR東海道線・横須賀線踏切、保土谷陣屋跡。




金沢横町


右へ直進が旧東海道
左折すると金沢道

錆びたトタン壁の脇に金沢横町道標四基がある。

どの道も狭くて一方通行



道標四基は下記のとおり
後方のパネルに親切な解説がある。







左記③杉田道の拡大写真
「程ケ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」




金沢横町道標四基


①「円海山之道」
  左面刻「かなさわかまくらへ通りぬけ」
  円海山は"峯のお灸"で有名
  天明3年(1783)建



②「かなさわ、かまくら道」
  左面刻「ぐめうし道」
  天和2年(1682)建




③杉田道
 「程ケ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」
 句碑を兼ねた道標
 文化11年(1814)建




④「富岡山芋天明神社の道」
  長昌寺の"ほうそう"の守り神
  弘化2年(1845)建







                      金沢横町道標四基   横浜市地域有形民俗文化財
 この地は、旧東街道の東側で、金沢・浦賀往還への出入口にあたり、通称金沢横町と呼ばれました。金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、道標として四基が建立され、現在残っています。
杉田道の句碑を兼ねた道標は珍しく、作者の其爪は江戸の河東節の家元だそうです。




「保土ヶ谷1丁目本陣跡前」
旧東海道を直進しこの交差点に来る。

正面が保土ヶ谷本陣跡

左が保土ヶ谷橋
右が戸塚


旧東海道はここで現在の新東海道(国道1号)に合流し、右折して、権太坂を越えて戸塚宿に向かう。


保土ヶ谷本陣跡

1601年、保土ケ谷宿ができた。保土ケ谷宿の役所が保土ヶ谷本陣である。東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は本陣に宿泊した。本陣は北条の苅部家(現、軽部家)が代々つとめた。


当時の門と土蔵が残っている。



「保土ヶ谷1丁目」から「保土ヶ谷橋」交差点方向を望む。

保土ヶ谷橋を左折すると、川崎、東京へ。

右折すると井土ヶ谷切り通し(環状1号)を経て井土ヶ谷へ出る。


金沢道は、石名坂(いわなざか)を登って前方に見える丘を越え、弘明寺、上大岡へ向う。
 金沢道(かなさわみち)は保土ヶ谷宿から金沢区役所の近所の町屋陣屋までの間の道である。保土ヶ谷から井土ヶ谷へ行き、ほぼ京浜急行に沿って弘明寺、上大岡に至り、ここから笹下釜利谷道路に沿って金沢文庫から町屋陣屋に至る。
 杉田梅林に行く杉田道は、上大岡付近で金沢道から別れて屏風ヶ浦へ出る森道ルート(環状2号に沿った道)と笹下釜利谷道路の栗木で金沢道から別れて東へ出る栗木ルート(環状3号の南側に沿った道)があり、前者が主に利用された。森道ルートには上大岡駅の北側の最戸橋から東へ別れる道、笹下釜利谷道路から鹿島神社付近で東へ出る道、関の湯から東へ出る道などがあった。環状3号の北側に杉田新道があるが、この道は大正時代にできたもの。
 杉田日記では、往路は金沢横町から野毛方向へ行き、吉田新田に宿泊、石川町を通って中村川、大岡川に沿って遡り、弘明寺へ出て、森道ルートで杉田村に行った。復路は保土ヶ谷に宿泊し、金沢横町を通って帰った。

Camera : Nikon D70(Lens : Sigma18-200mmF3.5)